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(35)長考は大体意味がないのかもしれない

将棋ではどれだけの時間考えるかということは非常に重要な駆け引きを生みます。基本的に自分は練習将棋も持ち時間有りで対戦しているので、「どの程度の確信を持ったら指すか」ということにかなりの神経を使います。100%納得して指す手は殆どなく、ある程度の疑問を持ちながら決断をしています、そもそも永遠に考えて良いと言われても結論がなかなか出ない問に対して有限の持ち時間を与えているのだから確信など持てないのが普通です。複雑な局面では可能な限り時間を使って冷静に考えたいとは思っていますが、あまり時間を使いすぎると重要な終盤で大きなミスを招く原因となります。この辺の時間の使い方のテクニックも将棋の醍醐味の一つです。

最近自分は「考える材料が無い時に判断に時間を割いても実戦的では無いのでは」という思いを抱いております。特に経験が少なく研究量の少ない序盤では細かな違いなどについて精査してもそれが勝敗に深く繋がるというケースは殆どありません。もちろんプロレベルではそんな訳ではないのですが、自分レベルの実力同士の対戦であれば寧ろ冷静に先の手を読めば確実に勝利に繋がる終盤である程度の時間を残しておいた方が満足のいく局面を作れるような気がしてます。最もこれは自分の序盤戦術に対する勉強不足が招いていることでもあるので事前準備をしっかりすることから考える必要もありそうですが。

将棋界の生きる伝説、羽生善治は著書「適応力」の中で将棋の格言"長考に好手無し"について語っていました。『長考しているときのほとんどは考えているのではなく、迷っていることが多いのです。』と伝説は語っていますが、この言葉は本質を突いていると思います。その長考が冷静に局面を進めて精査しているのか、それとも経験の少なさからただ闇雲に迷っているだけなのか、その時の自分の精神状態をいち早く捉えてその持ち時間の使い方に価値があるのかを考えることが実戦では重要なのかもしれません。

さて、日本政府は決断プロセスばかりにリソースを割いて実行プロセスのことを軽視しがちだと思います。間違った判断をしてもそこからの局面を精査していくことで挽回や逆転に繋がることなど多々あるのだから、迷うくらいなら50点60点の手をさっさと指してしまって時間を使う価値のある終盤に良い勝負が出来るように持ち時間を残すべきでしょう。大学教育ではなく入試制度の改革の議論ばかりしたり、所得格差是正ではなく生活保護制度の不正受給対策ばかり議論したり、考えてもキリのない場面で長考しすぎではないでしょうか?深刻な問題に直面して根本からの制度改革が必要になった頃には決断のための持ち時間が無くなっていることでしょう。

2019/05/18