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(19)「蛇にピアス」関係性にとっての身体とは

映画「蛇にピアス」を観ました、アマゾンの酷評レビューを裏切って感銘を受けました。以下ネタバレとか含んでいるので知りたくない方は読み飛ばして下さい。ただ、この映画のストーリーがネタバレした所で観る時に何も影響が無いと思いますが。

ストーリーについて一言で特徴を上げるなら、とても薄っぺらいストーリーです。恋愛ストーリーの一種なのかもしれませんが、それぞれの人物について深く描かれることはありません。過去の生い立ちが出て来る訳でもなく、相手に対して深い感情を表現することもなく、自分の感じてる気持ちを強く発することもありません。なんなら、それぞれの登場人物の本名が出て来るのは物語の完全に終盤になったときです。それら「人物の薄っぺらさ」がこの物語でとても重要になります。

薄っぺらい人々の心が寄り添う先は入れ墨、ピアス、スプリットタンなどといった身体改造、そしてそれぞれの男女関係が寄り添う先はセックスと暴力、飲酒喫煙、このことが映画2時間の中で延々と描かれます。正常な人間なら全く共感に値しないと思いますが、彼らにはこれしかないのだから仕方ありません。中身のない人間には刺激や痛みを伴う体験でしか自我や関係性を認識出来ない訳です。鷲田清一の身体論を彷彿とさせます。

最終的に主人公はその依存先に対して虚しさを感じ、また孤独へと旅立つ訳ですが、関係性の依存先という形式的な存在について考えさせられます。自我に身体という入れ物が必要なように、関係という形而上の存在に対しても何かしらの入れ物を用意して人間は社会性を獲得しているのかもしれません。記念日にサプライズをしかけたり、誕生日にプレゼントを送ったり、虚しくなるようなことに何故男と女は貴重な能力を投資するのか理解出来ないことがしばしばありましたが、関係性にとっての「身体」を作り出す営みと考えれば良さそうです。

とりあえず、この感想文を読んで映画を観ようと思ってる方に言いたいのは、映画自体は本当に退屈です。エンターテイメントを観る感覚で楽しめる代物ではないです。全体の3分の2くらいが暴力とセックスの描写と言っても過言ではないです。自分はグロテスクな描写などが普通に苦手なので目を細めながら観た部分が多々あります。しかし、この退屈さでなければ「身体」という存在を描ききれないのでしょう。心と身体と時間に余裕があるときに観ることをオススメします。

2018/12/10