(4)集団は個人に対する便宜上のラベルでしかない。
「集団でお金を集めてお祝いを渡す」という悪しき習慣は一体誰が考え出したのでしょうか?思えば小学生のときから「誰々が転校するから一人数百円出してね」みたいな勝手な提案をクラスの誰かが必ずしていたように思います。特にその人に対して特別な感情を抱いている訳でもないのに「クラスの一員」というだけで勝手にお祝いすることを決められてしまう。そしてそれに賛同するのが当然のような態度で金銭を回収してくるのは、悪しき風習だと言わざるを得ません。
果たしてこの習慣は祝われる人にとって本当に良い物でしょうか?集団からのお祝いの品というのは返礼にも困るのではないでしょうか。そもそも一人一人の感謝の念が分散されている点でお祝いというイベントの本来の意味が薄れ、形式主義的になっているようにも思います。似たような例で「おみやげ買って来たから一人一個ずつ東京バナナ持って行って」というのもあります。別の土地に行ったのだから自分が属している集団に何かを買って行かなければならないというのは冷静に考えれば意味不明な習慣です。もちろん、好きな相手やいつもお世話になっている特定の相手に何かを買って行くというのならば良くわかるのですが。
それでもこの悪しき風習に逆らえない人が多いのは同調圧力によるものでしょう。個人に対して「○○の集団の一員」という属性付けを集団が無意識に与えている状況が、このような習慣を生み出したのだと思います。こんな圧力下で半強制的に行動させられたお祝いに対して素直に感謝出来ないのは自分の心が歪んでいるからでしょうか?贈答行為は個人の意思に基づいてこそ尊いはずです。
この悪しき風習を断ち切る為にプレゼントは個人名義の物しか受け取らないことを僕は宣言します。僕と関わるあらゆる個人に対しては感謝していますが、集団に対しては特に何も思っていないので本当に必要ないです。政治家でいえば企業献金反対という立場を表明しているようなものでしょうか。逆に自分も個人名義で感謝している人々に贈り物をするので皆様遠慮せずに受け取ってください。宜しくお願いします。
思うに、集団は個人のラベルでしかないはずです。例えば「○○高校の同級生」だからその友人が大切なのでしょうか?友人のラベルがたまたま同級生であっただけの話にすぎないのに、同窓会として集まることに何の意味があるのでしょうか?飾り物に過ぎないラベルを根拠とした贈答行為はもうやめて、自分の意思に基づいて誰かに物を贈ることを今この場で提唱したいと思います。
2018/08/14