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(8)他人の口を塞ぐ歪んだ正義

杉田水脈のLGBTに関する論考への批判を受け、新潮社が新潮45の休刊を発表しました。「LGBTは生産性のない集団」といった趣旨の狂った主張を載せたことに対しては杉田水脈と新潮社ともに十分に批判が充てられるべきです。国会議員という立場でありながらも人間の多様性を寛容出来ないどころか、それを科学的根拠もなく批判する杉田水脈は人間のクズとしか形容出来ません。今回のブログの趣旨から外れるので彼女への批判はこの辺にしておきます。今回気になったのは言論の自由との兼ね合いの部分です。

休刊までの一連の騒動に対して大きな違和感を抱きました。一部の左翼どもが新潮社に対して廃刊を迫っていたことは言論の自由の侵害ではないかと自分は考えています。言論の自由が保障されるためには言論の場、すなわち言論する行為自体の自由を守る必要があります。今回の騒動もクソ記事を載せたこと自体と内容に対してのみ批判がされるべきであって、言論媒体の存在自体に対してまでも批判のメスを入れていくという行為は「自分の気に入らない人間の口を塞ぐ行為」と等価ではないでしょうか?

同様の違和感をヘイトカウンターデモに対しても抱くことがあります。ヘイトスピーチ自体は規制法があり、それに基づいて適切に対処してくべき事案であることは間違いありません。しかし、一度警察の許可を得てデモ活動をしようとする団体に対して適正な手続きを取らずに威圧行為によってデモを中止させるのはヘイト団体に対する権利の侵害ではないでしょうか?ヘイト団体に対して批判を行いたいのであればそのデモ活動を許可した公権力とヘイト団体に対して適切な手続きによって戦うべきだと自分は考えます。威圧行為によってデモを中止させてもヘイト団体に対して不当な圧力を受けたという口実を与えるだけになり、現実的にも不都合が多そうです。友人のブログ記事SNSの正義でも同様の批判が展開されています。

一部は左翼は「言論の自由=自分達の気に入った主張しか認めない」というように誤解してるという印象を受けます。表現の自由に詳しい山口貴士弁護士は自身のTwitterで「表現の自由は、多数派の幸福のためではなく、多数派から支持されない、あるいは、嫌われる表現を守るためにこそ存在します。基本中の基本です。」と発言していますが、これが基本原則でしょう。そもそも基本的人権自体がマイノリティの保護の為に存在しています。今回の件で新潮社に対して廃刊を迫った人々は護憲を主張する前に人権について考え直すべきではないでしょうか。

さて、件の騒動を起こした左翼はこれらの行為に対して総括が出来るでしょうか?この危険性を認識出来ないのであれば、政権交代後の内閣は間違いなく独裁政権となるでしょう。総裁選のときの街頭演説中の安倍首相に対して妨害行為を行った人々から安倍首相を超える独裁の素質を伺えたのは、自分の気のせいでしょうか。まだ安倍の方がマシだと思わせくれた件の人々は安倍の送り込んだスパイなのかもしれません。

2018/09/26